英語学習与太話 (1)

「大西さん独自の英語学習法、あったら本を書きませんか」

某社編集部桃島は言った。

考えてみれば妙な話だ。ここ数年「規則・日本語訳ではなくイメージを」と、それこそ口を酸っぱくして言ってきたのだが。これでも独自の学習法だとは思っていたのだが。

 「えと。そういった堅い話じゃなくですね。ほら最近よくあるでしょう?『声を出しましょう』とか『右脳を鍛えましょう』 とか...」

 

なるほど。それで腑に落ちた。ペギラマだ(*1)。あ、いやごめん。呪文だ。ある種の「呪文」のようなものを求めているのだ---英語ができるようになる魔法の呪文。英語の実際に分け入って実質的な何かを掴み取るものではなく、もっともっと外側にある、ほんわかした、夢多き、呪文。実に魅惑的なトピックではある。

 「おもしろいですね。実は私も考えてみたことがあるんですよ。ペギラマ、いや、『これで絶対大丈夫』みたいなアイデアを」

 「ほぉ。それでどうなりました」 桃島、膝を乗り出す。

 「とうとうわかりました」

 「ええーっ。なんと。ちなみにそれはどういった...?」

 「いえね。僕にはそんなアイデアはないってことが」

私は、個人的にそうした「これさえ守れば絶対」的な呪文を信じてはいない。もちろんそうした方式を否定する気はないし、ある特別 な呪文によって実際英語ができるようになる人もいるのだろう。ただどう考えても、誰にとっても機能する万能薬があるとも思えない。人にはすべて趣向・好悪・偏差・向き不向きがある。誉めて伸びる子もいれば叱って伸びる子もいる。理屈で伸びる子もいれば感性で伸びる子もいる。英語に限らずあらゆる学習において、唯一絶対の方式があり得ないのは、教職にある人間が職場で学ぶイロハである。

 個々人の偏差によって揺るがないのは事実だけだ。誰に対しても「こうやって英語を考えてみたら」と自信をもって伝えられるのは事実だけだ。「規則ではなくイメージが深く効率的」「日本語訳では英語はつかめないよ」、私が著書でこうしたことを安心して言えるのは、それが---大西が好きであろうが嫌いであろうが、内向的であろうが外向的であろうが、みみずであろうがおけらであろうがアメンボだろうが---誰にとっても受け入れることができる事実だからだ。

 私は呪文を唱えることを好まない。だが。

誰にでも効く万能薬、という前提でなければ、多少の気恥ずかしさをもってお話できることもあるかもしれない。みなさんは「ふーん。こいつはこんな風にやってきたんだな」程度に読んでいただければよろしい。でも万が一、取り入れることができることがあれば、参考にしていただければ幸いだ。

 まぁオヤジの与太話ってことだな、端的に言って。

                                   <以下次号>

 

(*1) ペギラマ:親戚の家で見た「ドラゴンなんとか」というゲームの必殺呪文、だったような気がする。