親指でドアノブのボタンを押しながらドアを開ける。重い金属音と共に伝統の厚さと重さをもつブリティッシュレーシンググリーンのドアが開く。最高級ホワイトレザーと渋い色調のウッドパネル。レザーはダッシュボードにまで及んでいる。拍子抜けするほど小さな鍵をひねると12気筒エンジンが軽い振動と共に目覚める。フット式サイドブレーキを解除しコラムシフトで D レンジに入れるとベントレーはゆっくりと動き出す、巨大なラジエターグリルで周りの空気を圧しながら。
メルセデスの威圧感は性能と値段によってもたらされている。気軽なものだ。宝くじにでも当たれば誰でも買える。だがベントレーが絶えず撒き散らす圧力は「社会階層」を出自とする絶対的なものだ。社会の特殊な階層が長きにわたって形作った濃い血縁。そこからしたたり落ちるクラスの滴、それがベントレーでありロールスである。ウッドとレザーに囲まれた排他的世界は後部座席の小さな窓を通 してしか下界とつながることはない。
走行車線を100km/h で進む。メルセデスSクラスが追い越し車線を飛ばしていくが、心にはさざ波すら立たない。心持ち顎を上げ目を細める。「一生懸命だな」感想はそれだけだ。車内には別 の時間が流れている。
「俺さ、ペインターなんだよ。この国じゃどこまで行ってもワーキングクラス。一生変わらないんだ」
「ミスター大西、僕はやっぱりワーキングクラスは苦手さ」
「爵位が300万円で売りに出ていたよ。誰か買う奴いるんじゃないのかな」「バカだな、そんな爵位 は名前を見ればすぐわかる。物笑いの種になるだけさ」
苦々しい会話がいくつも思い起こされ、我に復る。
この車は私が乗るべき車ではない。
そろそろ旅館が見えてきた。女将は巨大な車を見るなり胡散臭そうに
「お客さんその戦車みたいな車、うちの運転手じゃ動かせないからねっ」
「あ。いーよいーよ、自分で車庫にまわしとくから。それより夕食早めにね。腹へったーっ」
階級社会の落とし子ベントレー。だけど日本じゃ温泉スペシャル。