私はウソが嫌いだ。適当な答えでお茶を濁すのが嫌いだ。だから教授会でも、余人には不必要に思えるほど込み入った理屈を駆使して何十分も話し続ける。あんまり長いので学長がたまりかねて
「ところで結局どういった意見かね」
「要するに賛成、ということです」 まわりがあきれる。中には怒りだす人もいる。
だが、私にはウソがつけない。いくら真理が曲がりくねってようが、それが特に重要な真理でなかろうが、それを追求するのは大切なことなのである。
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今日 What car? という車雑誌を熱心に見ている私に、6歳になる娘が
「パパは車が好きなんだね」とにっこり笑いかける。
普通なら「そうだよ」で済みそうな質問であろう。しかし、私にはそれができない。(私は本当に車が好きなんだろうか。本当にそう言っていいのだろうか)という問題を突き詰めはじめてしまうのだ。
「そんなことはないよ」 娘はキョトッとしている。そりゃそうだろう。私はおかまいなしに続ける。
「いいかい、パパは車が好きそうに見えるだろ?でもそれはちがう。パパは自分が好きなんだよ」 ますますわけがわからなくなってきたようだ。
「パパはね、車が好きなわけじゃない。カッコイイ車に乗っているカッコイイ自分が好きだから、カッコイイ車を探しているだけなんだよ」 これが一番正直な答え。
「ふーん」 娘はまだ飲み込めていないらしい。そこでもう1つ例を出す。
「ほら、ママもね、いつも住宅情報見てるだろう?ママはね、別に家自体が好きな訳じゃないんだよ。かわいい家に住んでいる、かわいい自分が好きだからなんだよ。いいかい、人間はね、結局自分がかわいいんだよ」
炊事していた家内が、
「なーに、馬鹿なこと教えてんの」
娘も、
「そんなこと言うのパパだけだよ」 逃げていった。
真実の探求は常に険しい。