030221 (続)バレンタインデー

自信をもつことは素晴らしいことだ。だが。

 最近メールマガジンなどを配布しているせいで、読者からのさまざまな投書に目を通 す機会がある。実に勇気づけられるものが大半であるが、数ある中には次のようなものもある。細かな話は忘れたが概略、

 「先生のメールマガジンにある次の文は誤りではないですか。When I got there I was told that the others had arrived 2 days before. なぜならthere の後ろにカンマがないから。when 以下は従属節なので前に置かれると主節との間にカンマが置かれます。従ってカンマを付けるのが正解です」

というもの。20年以上英語を研究し論文・文法書を山ほど書いている人間に、中学校で習う学校文法を説明したあげく最後は「これが正解です」。関東大震災クラスの自信である。しかし、こんなものは序の口。良心的な方だ。

現在完了を説明すると

 「著者の現在完了の説明は誤りです」 (あのね)

イギリス綴りで文を書くと

 「s は z の誤りです。あまりにも綴りのミスが多く不愉快です。メルマガやめようと真剣に考えています」 (はいはい)

こうした例は枚挙に暇がなく、私も慣れっこになった。以前は愕然としたものだが、最近はちょっと楽しみにしていたりする。「今度はどんなにものすごいのがくるんだろーなー」。ただ気になるのは、こうした人々の溢れんばかりの自信はどこに原因があるのかということだ。

 想像力の欠如と匿名性だ。

自信の肥大化は、優れた他者の存在を意識するという知的能力の欠如を母に持つ。松井選手の横でバッティングをしたら誰でも自信を失うだろう。貴の花と相撲を一度でも取ったら腕力に自信など到底もてないだろう。織田祐二と話をしたら芸能界で生きてはいけないことがわかるだろう。そうした他者を意識の中に置くことができないことから、無敵の自信が生じるのだ。「何も調べず、何の論拠も示さず、辞書すら眺めず、専門家に向かって自分の意見を自由に開陳してよい」と悪気なく思えるのだ。そして無敵の自信は---昨今の「情報化社会」では---匿名性によって篤く守られている。匿名性によって守られている限り、根拠のない自信から生じた意見は他者の批判に晒されることがない。自分は無傷だ。かくして「ボクはゼッタイ正しいんだ」は他者とまみえることなく肥大していく。

 「おててつないでゴールイン」

つまらん教育の成果は日本津々浦々まで浸透している。負けた悔しさが、恥ずかしさが、自分の手が届かぬ 他者を意識 させるのだ。「みんな同じだよ」の教育は、子供たちから他者への畏れと人間を磨く契機を悉く奪っている。

 だから私はヘンな顔で生まれてよかったのだ。

 あれ?

 

(カンマについて)

 簡単に説明しておきましょうか。もちろん厳密に言えばこうした場合カンマを置くのが正用法。私も academic writing を指導するときには、カンマを置くように指導します。しかしそうした極端な厳密さを必要とするコンテキスト(そこでは短縮形すら忌避されます)以外では、カンマのルールは非常に緩くなっているのが実状なのです。英語を実地で使う経験を多少なりともお持ちの方なら、このようなケースでカンマなしの文には頻繁に出会うはずです。文意を正確に伝えるためカンマを省略できない場合は多々ありますが、ここはそういった配慮がまったく必要のない簡単な文。「正しい・まちがっている」などというお話ではありません。