050711 20答法


「'私'は誰ですか。20個の答えを考えてください」

「20答法」と呼ばれ、自己概念やアイデンティティ(同一性)にアプローチする一つの方法として、よく用いられているそうだ。この質問に「大西泰斗」と名前を答えると真実の自分がわかっていない、洞察力と確かなアイデンティティに欠けている人なんだそうである。ちなみにすでになくなったフランス文学の大家は「フランス文学研究者です」と最初に言ったそうで、それは「さすが」なことなのだそうだ。

ずいぶん幸せな話だ。真実の自分がいたり、適正な自己概念があったり、こうした原始的な方法でアイデンティティに「アプローチ」できると考える態度が、だ。
   
だいたい「真実の自分」に遭遇した人間など、歴史上皆無だろう。「フランス文学研究者」やたった20の特徴付けでアイデンティティが確立できるなら、誰も苦労はしない。世の中に数多いる他のフランス文学者と区別がつかなくてよい「アイデンティティ」など語義矛盾だ。    

こういったお気楽な前提があるから、世の中平気で「本当の自分を探そう」なんて言い出す人が出てくるのだ。本当の自分なんてどこにもいやしない。いつまで経っても「本当の自分」のまわりでウロウロしている本当の自分がいるだけだ。自分を測量することなど誰にもできない。    

すべての人間の「自己」は質量も体積も持ち合わせてはいない。ある種の関数である。ある経験が入力されればある方式で反応を出力する、その方式自体がその人間の「自己」である。〆切が迫れば胸が詰まり、揶揄されれば言葉に詰まり、月末には金に詰まる、そうした経験への反応の総体としてしか自己は定義できないだろう。しかも、入力された経験の多寡によって、その性質によってその関数自体が変わってくる。以前は胸が詰まったが、父親の死を乗り越えて、そんなことには動じなくなった、などの例は山ほどあろう。あらゆる身体的、精神的刺激に対する反応の総体、しかも時系列上で刻々と変化し、異なる座標点でまったく異なる総体を生み出す或るもの。そうしたものを「理解」「把握」することが可能であるか。たとえその暴挙を試みる者がその本人であったとしても。
   
わけ知り顔で「自分はこういった人間です」。そういったことを言い出す人間の話が興味深かった試しはない。それがどれほどむずかしいことなのかわからぬような人間の、おもしろ半分の告白などおもしろかろうはずがない。生半可な「理解」ではなく、具体的な経験、それに対する反応の注意深い観察のみが重さをもちうる。「自分」は経験で削り出すもので内省の対象ではない。
   
だからこそ「自分」は開拓すべきものなのだ。あらゆる価値判断を拒否し1つ所に留まることのないものだからこそ、開拓しがいがある。

ちなみに20答法への私の答えは

大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗大西泰斗だ。

「真実の自分がわかっていない」、お馬鹿さんってことですね。ま、それわそーなんだけどさ。 いいんだよ。真実の自分は隣に座ってコーヒー飲んでいる人がわかってりゃいいのさ。